位牌の意味

位牌は儒教の影響によるもので、位とは地位や官位、生前の肩書を意味します。その牌(ふだ)が位牌で、この板に霊が宿るとされ、「依り代(よりしろ)」としての意味合いが強いものです。

日本人には、ご先祖を仏さまとして、位牌を仏壇の中に祀って供養し、お給仕をする習慣があります(浄土真宗は例外です)。それは、このように安らかな日々を過ごすことができるのも、仏さまやご先祖さまのお蔭ですという、感謝なのです。

お通夜や葬儀のときに用いる白木の位牌は野辺送り用で、四十九日が過ぎると菩提寺に納め、塗り位牌・札位牌に改めて仏壇に安置します。夫婦ニ霊の幅の広い位牌もあります。位牌が多くなり、仏壇に置けないようになりましたら、屋根や扉のついた繰り出し位牌に祀り換え、中に木札を納めます。

ただし、仏壇は位牌壇ではありません。位牌はご本尊の両脇、もしくは仏壇の中段に置くようにします。古い位牌は向かって右に配置します(右側を上座とします)。また、過去帳(霊簿とも点鬼簿ともいいます)の場合は見台に乗せ、やはり仏壇の中段中央に祀ります。

位牌の表には戒名、没年月日。裏には俗名、行年などが書かれ(彫られ)ています。なお、生前に位牌をつくるときは逆修といって、戒名の文字を朱色にします。

繰り出し位牌

祀る位牌が増え、仏壇に入りきらなくなった場合は、厨子形の中に数枚の位牌札を納めることができる繰り出し位牌に移しかえます。繰り出し位牌の扉は、ふだんは閉めておきますが、年忌法要のときには、扉をあけ、その故人の位牌札を手前に出すようにします。

中国仏教の位牌

日本で定着している位牌に戒名・法名を付け、仏壇に置くということは、いつ頃から行われるようになったのでしょうか。その起源を中国に求めてみると、なかなかその実例が見当たりません。中国の伝統文化の中にある木主と、そこに記される神主の風俗を、仏教側が取り入れたのであろうと説明することは一応できるのですが、その先の具体的説明まで辿りつくことは難しいでしょう。

隋・唐の時代の国家的特長は、前代の南北朝時代の北朝の性格を色濃く持つといってよいでしょう。つまり、紆余曲折はあっても、儒教・道教・仏教は国家の保護下にあったということです。

中唐の中国を旅した日本僧、慈覚大師円仁(794~864年)の「入唐求法巡礼行記」には、国家をあげて安寧を祈る大規模な法会が寺院を中心として催されている様子がしばしば記録されています。

寺は国家の寺であり、僧は国家の僧であり、庶民の葬式に手を染める姿は、そこからはうかがうことはできません。事実あくまでも中国の仏教は国家のための仏教だったのです。繁栄を誇った唐帝国が崩壊し、宋という統一国家が再び登場するまでの五代十国時代(907~960年)、仏教はその激しい興亡の中で統制を加えられました。それに伴って、仏教は次第に歴史の表舞台から姿を消していきました。しかし、その一方で、仏教は別の道、すなわち庶民の中に浸透していかざるを得なくなりました。

国家仏教から庶民仏教へ

中国の唐末、五代十国の時代、苛酷な環境の中で推移した仏教は、従来の長安・洛陽などの都市を中心に発展してきたものが、地方の経済開発に随伴して自ら地方へ浸透していきました。またその地方において、名もない君主たちによる伝統の排除・破壊と相まって、新文化として新仏教が形成される素地がつくられつつありました。

このような趨勢の中、ことに注目されるのが、杭州に都した銭氏呉越国の仏教でした。現在の浙江省の地に907年、銭鏐(852~932年)が初代呉越王となり、その後、第五代呉越王・銭弘俶(929~988年)が北宋に帰順するまで、およそ70年の間、呉越国はほとんど戦禍に見舞われることがありませんでした。代々の王は仏教帰依者であり、北地の隋・唐仏教が江南の杭州、揚州、福州、広州を中心とする近世の宋・元仏教へと大転換する素地をなしたのが、この呉越国の仏教文化でした。

それは、インド・西域から新たな経典の伝訳、流入が少なくなり、さらに幾多の戦乱が起きて西方からの諸宗の典籍が散逸したために、かえって浄土教や禅宗に代表される中国人特有の仏教が発達したわけです。とりわけ宋代において発展をみせた禅・天台・律などに共通した修行法は浄土教にありました。のみならず、江南の杭州や湖州などを中心として、浄業社、浄土会、白蓮社などが多数の同志を集めて念仏結社を創り、日々、住生浄土行として念仏行を実践していました。その信仰が多くの金品を集め得て、念仏道場の新建とか、浄土仏典の印刷、流布ともなり、念仏往生浄土の信仰がさらに流行していきました。

一方、禅宗は唐末より特に盛んとなり「一日作(な)さざれば一日食らわず」で有名な百丈懐海(ひゃくじょうえかい)の弟子の潙山霊祐(いさんれいゆう)や仰山慧寂(ぎょうさんえじゃく)の法系から潙仰宗(いぎょうしゅう)が、黄檗希運(おうばくきうん)の弟子である臨済義玄(りんざいぎげん)からは臨済宗が生まれ、曹洞宗、雲門宗、法眼宗の五家の宗風が生じました。さらに宋代に入って、臨済宗から分派した黄竜派と楊岐派とを合わせた五家七宗が互いに門戸を立て、禅風を提唱し、一般庶民の生活の中にも深く浸透していきました。

これらの新仏教は、高遠空疎な哲理を説くことより、庶民の生活に密着しつつ普及しました。このため、中国古代からの儒教による年中行事が仏教寺院に取り入れられても何ら不思議に感じられることはありませんでした。また、それに本来の仏教行事も加えられることによって、庶民の中で仏教にまつわる年中行事が次々と行われるようになったのです。

多様化した位牌の形

「位牌」は鎌倉時代に中国より禅宗とともに入ってきたものであるらしいというのが仏教の側からの一般的な見解といえるでしょう。

たとえば、臨済宗の夢窓疎石(むそうそせき)の法嗣である義堂周信の著作「空華日用工夫略集」の応安4年の記述には、位牌は中国の宋から伝えられたもので、それまでは日本にはなかったと記されています。十四世紀の「園太暦(えんたいりゃく)」や「鹿苑院殿薨葬記(ろくおんいんどのこうそうき)」には、足利尊氏や足利義満の葬儀を執り行うにあたり、どのような法名を贈るのがふさわしいか、議論されたさまが記され、そこに位牌の記事が見えるのです。武士の間では、位牌は室町時代から作られるようになっていたようです。

ところが、一方では、仏家で用いられる位牌は、儒教的な木主とか、禅宗が中国から伝えれたものではなく、日本古来の霊代(たましろ)、依代に起因するものだという説があります。また、朝廷の役職等の位籍を転用したものであり、古くは笏型であり、仏教の卒塔婆の影響を受けて作られたものであるという説もあります。しかし、その根拠は必ずしも明確ではないといわれます。

したがって、日本の位牌の起源をこれと定めて明らかにすることはきわめて難しいというべきでしょう。

二つ作られる位牌のわけ

庶民の間で位牌が作られるようになったのは、江戸時代の元禄から享保年間(1688~1736年)のころでしょう。五代将軍綱吉から八代将軍吉宗の時代に、庶民にも用いられるようになり、その多くは、文化・文政のころ(十九世紀初頭)に一般化したものでしょう。

ちなみに、家ごとの位牌と石塔とを比較すると、概して石塔の方が先行して建てられている傾向があり、一般の家の位牌の歴史はそれほど古いものではないように思えます。

今日、位牌は仏壇に安置され、盆、彼岸、命日、ないし朝晩の供養の対象となります。また、ご存じのように、葬式の際には白木に墨書した二つの仮位牌を作ります。野辺送りの葬列で施主または喪主が持って墓地へ運ぶ野位牌と、家の祭壇に四十九日間安置しておく内位牌と呼ばれるものです。しかし現実には、都会ではだいぶ前から野辺送りの風習は廃れてしまい、埋葬または納骨は葬式とは別の日を選んで行うことが普通となってしまったので、内位牌を一つだけ用意して葬儀が執り行われることが多いのです。

二つの白木の位牌の上部の置字は「新帰元」「新円寂」などと記されます。忌明けの七七日忌ないしは一周忌、三周忌、所によっては百カ日忌の時に、家の仏壇に置く本位牌として白木のそれは塗り物の位牌に代えられます。

その位牌の置き字は「円寂」「帰真」、梵字の「阿字」などであり、下の置き字は、白木の場合は「霊儀」「霊位」「幽儀」などが適用であるが、本位牌の場合は「霊」を抜く場合も少なくありません。が、地域、宗派、寺の慣例などで種々の用例があります。なお、古い身分制度の下では、その制度に従って細やかな想定があったようだが、それがほとんど崩壊した現在では、特別な場合を除いて、通用に従っているようです。

塗り物の本位牌の用意ができると、白木の内位牌は菩提寺に納め、本位牌を改めて開眼します。

本位牌の形状はさまざまです。野位牌と呼ばれる何の装飾もない台と板だけの構造のものに塗装を施した塗位牌から、位牌の下部を蓮台にしたもの、さらに上部に雲形や月等を刻み込んだ屋葢をかぶせたもの、位牌本体に観音開きの扉を設けたもの、また、唐草などの模様を刻んだ両袖を持つもの、一つの位牌に複数の法名を記し幅が広いものなど多様です。

位牌は死者を偲び供養するしるしであって、普段は家の仏壇に安置され、家族の礼拝を受け、盆には盆棚などに移され、供物をあげて祀られるのが一般的です。特別なものとして、生存中から作って安置、供養する寿牌という位牌や、すべての死者を供養するために作った三界万霊牌などがあります。

位牌の扱いはさまざまで、三十三回忌を過ぎると焼却したり、墓地に埋めたり菩提寺へ納めたりする例もある一方、その家の先祖代々の象徴として永く守り伝えて供養する例もあります。

親が死亡した際、子どもの人数分だけ位牌を作りわけ、子どもたちはそれぞれ親の供養をするという「位牌分け」の風習を持つ地域もあります。このように、近世以降の生活の多様化の中で、位牌をめぐる民俗も多様化したものと見られます。そうした経緯を辿り、日本仏教は位牌を中心とした儀礼として庶民に定着していったといえます。

まとめ

ご先祖を仏さまとして、位牌を仏壇の中に祀って供養し、お給仕をする習慣は、安らかな日々を過ごすことができるのも、仏さまやご先祖さまのお蔭ですという、感謝なのです。祀る位牌が増え、仏壇に入りきらなくなった場合は、厨子形の中に数枚の位牌札を納めることができる繰り出し位牌に移しかえます。